自分史

2009年2月27日 (金)

中学入試から中学校での事

 それほど成績が良かった訳ではないのだが、中学入試は当然受けるべきものだと、自他共に考えていた。小学校の担任は、特別な補習をするわけでもなく、市販の薄っぺらい算数の問題集をくれただけだった。受験するのは、国立、岩手大学教育学部附属中学校だった。小学校で習っただけの学力では受かるはずはない。私のクラスからは4名が受験した。最初の合格発表では、一人ハセガワ君が合格した。補欠入学の二次の発表があった。私は小学校へ行けずにいえに引きこもっていた。そこへイシバシ君がやってきて、補欠で合格したと伝えてくれた。さっそく中学校まで発表を見に行った。

 補欠でも合格した自分は舞い上がってしまった。かなりハイになったのである。入学式の事は覚えていないが、その後のホームルームではかなり積極的に発言したものだ。通学のために買ってもらった自転車も、かなり派手な作りだった。一年のときはA組だった。2年と3年はC組だった。一年の時の担任は「サンペイチャン」だった。理科の教科を教えていただいた。二年と三年は「ピラ」だった。数学の教科を受け持っていらっしゃった。

 中学では運動部には入らず、技術部と美術部を行き来していた。三年の時には放送委員となって、昼食時にディスクジョッキーの真似をしていた。本当の理由は、母親の用意する昼食の弁当を、他人に見られたくなかったからで、それほど貧弱なものだった。最後の頃は弁当を作ってくれずに、パン代を手渡すようになっていた。中学二年の頃、深夜ラジオが開花した。ここに当時、「オールナイトニッポン」の月曜日の担当、糸井五郎のオープニングを載せておく。

      

 中学三年の夏休みに入ろうという時。アポロ11号が月面に着陸した。人類初めての第一歩の録音があるので、ここに載せておく。

      

   

2008年11月 4日 (火)

小学校高学年の事(2)

 小学校5年生の時、私はNHKのテレビ番組に出演した。「知事さんこんにちは」と言う番組で、5年生では私ぐらいだった。皆が「遊び場が無い」等といっている中で、「岩手は資源が豊富だがその開発をどうするのか」と尋ねた。原子燃料公社の人々を知っていたからである。後で、級友の母親から、「あれは誰に言わせられたのか」と聞かれたが、正直、自分自身の疑問であった。NHKからは、出演のお礼として色々なお土産をもらった。

 また、同じ頃、200円を預けられて、好きなおかずを買って来いと母親に言いつかった事があった。「マルハチ」と言うスーパーで買い物をしていたのだが、時間がかかりすぎ、母親が迎えにきた。200円きっちりと使おうとして、暗算しながら、後何円とやっていたのである。

 「イシバシ」君という友人が居た。彼との秘密は岩手医大の霊安室の裏の隠し場所である。そこに町で拾った「平凡パンチ」や「美術用のデッサン用の写真集」等を隠していた。性の目覚めであろうか。比較的よく集まった。

 小学生の高学年の頃には、学校の図書館をよく利用した。また一月にいちど、本屋さんがやってきて、体育館で「学習」と「科学」の二種類の本を売っていた。私は「科学」の方を買っていた。クラスでも皆が買っていた訳ではない。まだ、欠食児童という言葉が残っていて、「ヨシダ」君や「タカハシ」君などは食事が学校の給食だけだったと言う事実もあった。

 当時は他に「ムラマツ」君と言う、母親が水商売の同級生がいた。彼の家へ行くと、母親も父親も下着姿で、こっちがびっくりした。彼は中学を卒業すると横浜に出て、中華料理の見習をして、十代で結婚し、一家をなしていた。子供も早く生まれたようであった。彼には弟があったが、優秀だったとのことである。

 「ムラマツ」君の家では、春先、桜のシーズンになると、高松の池と言う所で屋台を出していた。遊びに入ってはおでんなどご馳走になった。

 私は人の面倒見が良かったので、構内児童会の会長になった。その挨拶の朝礼の朝、母親に叱られて、家を出た為、ハンベソをかきながら壇上に上ったのを覚えている。児童会は週一回集まっては色々話合っていたのだが、細かい事は忘れた。

 あるとき、子供会総会の会長選挙があったが、これはPTAの会長の娘に取られてしまった。顧問の先生がそのように紹介したからである。悔しかった。副会長になったのである。私は誇らしげに、二つのバッジを当時気に入っていた紺色のセーターに付けていた。

 1965年には、ミュージカル映画の「サウンドオブミュージック」を見た。小学校では年に1度か2度、映画館に連れて行ってくれ、文部省推薦の映画を見せてくれていたのである。オープニングを載せておく。

      

 父は、サウンドオブミュージックのLPを買ってくれた。そのころステレオはパイオニアの三つに分かれるセパレート・タイプのものだった。それこそ溝が磨り減るほど聞いたものである。その中で、「ドレミの歌」は、カタカナにして、英語で歌おうとした。これも中学に入ってから辞書を片手に翻訳した想い出がある。父はレコードに関してもかなり散財したが、私が頼んだレコードはほとんど買ってくれた。

 小学校5年生の時、私はギターを買って貰った。当時流行っていたエレキギターではなく、クラシックギターである。教習本と一緒で3000円位だった。当時ギターを持った小学生などいなかったのではないか。6年生になってから、クラスの「イワオカ」君達とバンドのような真似事をした。彼はギターマイクを付け、ピックでクラシックギターを弾いていたが、エレキギターのような音が出た。

 また、白黒のカメラも買って貰った。岩手銀行の写真展で、盛岡城跡の石垣を撮って、入賞し、花瓶を貰った。賞状は例によってメモ用紙である。

 また、レーシングカーが流行っていて、八の字のコースのキットを買って貰った。しかし子供の手には余るもので、完成させずに捨ててしまった。

 小学校最後の想い出は、仙台への修学旅行である。「白松がモナカ」というお菓子工場へ見学に行ったが、お土産を交わせる為である。私は少ない小遣いで、父の好物の「九重」を買った。それが、もうすぐ盛岡駅に着く直前で窓から落としてしまった。暗い中自転車で落とした辺りを捜したらそのままあった。拾ってきたのはもちろんである。父への数少ない親孝行のつもりだったのである。

 

2008年10月29日 (水)

小学校高学年の事(1)

 小学校高学年になると、一家は長町(長田町)に引っ越した。狭い路地裏の二件長屋で、大家さんは本屋さんだった。それで、本を買うのは自由だった。私は「子供の科学」をとっていた。他に本をよく買ってくれたが、読むには読んだが、余り内容は覚えていない。「ほら男爵の冒険」はよく覚えている。表紙の名画が素晴らしかった。

 隣は「ヨシオカ」さんと言う大工さんだった。おとなしい方で、しかられた事など一度もなかった。お嬢さんがお年頃だった。よく自動車で送ってもらっていたのを見た事がある。

 魚屋は長屋の路地を出てほぼ正面。隣が豆腐屋、駄菓子屋と銭湯と床屋は路地を出て右へ行ったところ。路地を出て左へ行くと映画館と八百屋があった。

 その八百屋で生まれたメス犬を貰ってきて飼った。名前は平凡にも「ポチ」とした。私が東京へ出るまで、長生きだった。

 路地を出て左へ行った映画館は、最初は普通の映画館で、モスラとかゴジラとかを見たものである。アズサミチヨの「こんにちは赤ちゃん」も見た覚えがある。しかし、興行が上手くいかなかったのだろう。すぐに成人映画専門館になった。恥ずかしかった。なまえは「ギンエイザ」と言った。

 父の勤務の仕方も変り、ある楽器店の前のバス停に変った。一度2時間以上待った事があった。父は「飲み会」だった時である。凍える寒さの中、1時間に1本のバスを父の為に待ったのである。

 習い事はそのままやや遠くなった所から通った。日曜日も、なんでも母の教会に対する考え方の違いから、近くの「聖公会」という所に変った。

 小学校は、学区外となり、本来なら別の小学校に転校しなければならなかったのだが、何故かそのまま桜城小学校に通っていた。

 妹がネフローゼになったのも、引っ越してからである。減塩バターや薄味の食卓には閉口した。幸いその後直ったようである。

 学校では、ハーモニカと鉄棒に凝った。負けず嫌いな所があって、ハーモニカと鉄棒はクラスでもかなり上の方だったと思う。鉄棒ではかなり手のまめを潰した。それでも逆車輪に挑戦していた。結局は出来ずに終わったが、休み時間といえば鉄棒ばかりしていた。一度まっさか逆さまに落ちて気を失った事もあった。

 指導者もいないまま我流で、やっていた。

 小学生の頃は、毎週のように何かしらの「賞状」を貰っていた。副賞の花瓶など、母は喜んだが、賞状のほうは破いてメモ帳代わりにされていた。それ程学校も賞状好きだった。

 弟が生まれたのは1964年8月30日である。オリンピックの年である。近所の産婦人科で生まれた。このときも母方の祖母がやってきたように記憶している。

 5年生から6年生にかけては、器楽部に所属していた。アルトハーモニカというのであろうか、大きなハーモニカを吹いていた。指導に当たられたのは「ヘライ」先生と言う男性の先生で、その奇妙な名前はわすれられない。後で知ったのであるが、「ヘブライ」と関係があったらしい。青森にはキリストの墓もあり、その昔、ヘブライ人がこの東北へやって来たというのである。私は佐渡島で、キリストの墓を見たように記憶している。高校生の時のことである。

 ご多分に漏れず、私もオリンピック少年だった。1964年と言えば計算上は小学4年に当たる。私はこのオリンピックの為の、実験放送を、徹夜してみたものである。飛び込んできたニュースはアメリカからはケネディ大統領暗殺の話であった。白黒テレビにかじりついていた私は、よく分からなかったにもかかわらず、後で勉強した。イギリスからはビートルズの「Love」を連呼する歌だった。3台の衛星で、世界同時放映が可能になった記念すべき出来事だった。ここにケネディの月へ人類を送り込む演説が残っているので載せておく。

      

 中学校に入ってから辞書を片手に読んだ物である。辞書は早くから「コンサイス英和辞典」を使っていたが、高校に入るまでやや難しいものだった。

 その年の10月10日に開会式が開かれた。テレビに釘付けであった。学校でも、オリンピック最優先で、当時としては珍しい各教室に一台ずつテレビが備えられていた。授業そっちのけでオリンピックの中継を見たものである。

      

 色々と感動を覚えたが、中でも遠藤選手の鉄棒演技や「東洋の魔女」、マラソンの円谷選手の銅メダルといった活躍が記憶に鮮明である。後で悲劇に終わったが、アベベの金は当然としてもかなりの重圧があったのだろう。

2008年10月27日 (月)

小学校入学から低学年の事

 小学校へ入学したのは、1960(昭和35)年4月である。盛岡市平山小路に住んでいたので、その学区の小学校へ通った。

 最初の担任の先生は「キクチヨウ」先生だった。1年1組である。全部で4組だった。6年間1組である。出席番号は15番だった。何故なら私が11月15日生まれだから覚えているのである。その頃の他の記憶はほとんど無いが、机が木製で、二人掛けの椅子で、机は前の椅子にくっついていた。何故覚えているかと言えば、上級生になって、以前の教室を覗いたからである。机には引出しは無く、上下させて中に教科書等を入れる形だった。

 小学校に入って、まず暗記させられたのが「火事の合図は三点しょう(鐘?)。慌てず、騒がず、順序良く。一度出たなら戻らない」と言う標語である。

 給食がすぐに始まった。米軍放出の小麦粉で焼いたコッペパンと脱脂粉乳は覚えている。皆はまずいと言ったが、私には脱脂粉乳も美味しく感じられた。高学年になって、ランチタイムという各学年の生徒が一堂に会して、給食を食べた事があった。

 学校で掃除当番が始まった。雑巾をもっていくのである。何か一段上へ進んだ思いがした。その頃は2年生だったのだろう。担任は盛岡一美人と言われた「クドウタミコ」先生である。3年の頃だろうか、この担任が出産の為休職された。代りに来た先生は、やや年配の「タガイ」先生だった。半年程お世話になったのであるが、「クドウ」先生には、第2学年から第6学年まで5年間担任をして頂いた。

 小学生の時、低学年から柔道と書道を習わされた。柔道は一番小さく、投げられ役専門であった。おかげで、受身が上達し、後で役にたった。月曜。水曜、金曜の週3回だった。道場の名前は「船越道場」。水曜日が総当りの試合があった。見たいテレビを我慢して、7時から8時半くらいまでだった。8時半からは大人たちの時間であった。

 書道は、「リフ」先生と言う年配の先生の所だった。土曜日の午後に通った。低学年で始め、高学年まで通っていたので、実力はないものの、その属していた団体から5段をもらうまでになった。手本を下にひいて、なぞるのであるから、形だけは良かった。そういう先生だった。

 子供用の自転車を買って貰い、学校の鉄棒を伝って練習し、一人で乗れるようになった時には嬉しかった。日曜日には30分以上かけて遠くの館坂(たてさか)と言う所にあった教会の、日曜学校へ通わされた。母親がキリスト教に熱心だったからである。つまり、月曜から日曜まで、休みは無かったのである。

 日曜日、教会から帰ると、父の手を引いて、レコード屋へいった。父の楽しみはレコードだったからである。

 当時の物価は、かけ蕎麦が50円、支那蕎麦が80円位だった。そんな中で父は当時出始めた50円玉(とても大きく感じた)をためていて、マルハチ(スーパー)で両替をして、レコードにとどまらず、ステレオまで買った。私には触らせなかった。何故ならレコードが極めて高価だったからである。しかし、父の居ない時、ビゼーのカルメンやベートーヴェンの運命等聴いていた。

 そんな父と、会津若松の本家まで旅行したのも低学年の頃である。夜汽車に揺られて行ったのだが、私は生まれて初めて缶詰の「トマトジュース」を飲み、気分が悪くなったことを記憶している。本家では、小遣い欲しさに、ご飯をお代わりさせられた。

 平山小路の身障会館の隣には、今はもうなくなったかと思うが、「原子燃料公社」と言うのがあった。そこの研究員の方にもかわいがってもらった。ウラン鉱(ガイガーカウンターで50カウント)や、放射能を帯びた黄銅鉱(ガイガーカウンターの150カウント)を始め、ガーネットや方解石、水晶の結晶等を貰った。夏休みの自由研究で、それらをお菓子箱に入れて、自分で付けた名前の札を添えて提出したら、学校に取り上げられてしまった。参考までに学校に陳列すると言う事だったが、目にした事はない。

 その頃、近くで道路工事があり、舗装の為の砂利を敷いていた。その砂利が宝物だった。現場へ入ってはこれぞと言う石を収集していた。母親には叱られたが、子供の宝物とはそういう物である。高校に通いだしてから、石の名称などを調べた。大したものは無かったが、中にはいいものもあった。

 小学校の低学年の時には、家にテレビが無く、となりの「テヅカ」君の家へ妹と見せて貰いにいった。おぼろげな記憶だが、日曜日の夜の「ポパイ」を見た覚えがある。先日、ダイソーでこの「ポパイ」のDVDを買って見たが、たいした内容ではなかった。

 冬はスケートは「下駄スケート」と言う物を買ってもらった。雪の上でもスケート出来るのである。大雪の日にはスキーを履いて学校に行った覚えがある。めったには無かったが、長靴では間に合わない程積雪のあった時である。

 よその組だったが「双子」がいた。見るからにそっくりでびっくりしたものである。

 またアメリカ人の宣教師の息子と娘が通っていた。男の子は「ダニエル」くんで、呼ばれて家まで遊びに行った事があった。父親の宣教師が簡単な手品をしてくれたのを覚えている。

 私の人生で、最も最初に出会った英単語は「ワケーノウ」である。ダニエル君が、噴煙を出している「岩手山」を指差してそういったのである。これが「ボルケーノウ(volcano)」だったと分かったのは19歳位の東京の英会話学校に入ってからである。

 近所には、「ヨシミ」と言う一学年上のワルが仕切っていた。また、「タコちゃん」というのもいた。同級生ではないが、一学年上の女の子に「クボタカツコ」というのもいた。後で、中学校でいっしょになる。彼女は岩手大学付属小学校に通っていたのだと思う。正直言って大した遊びはしなかったが、当時流行っていた「七人の刑事」ごっこのような事をしていた。よく木に登った。

 そんな日常の中にある、想い出したくない事件があった。それは「ヨシミ」ら一味との、集団万引きである。「カワトク」の食料品部門が小学校のとなりにあり、傘を持っていき、その傘にチョコレートやガムを入れて、出てくるのである。不信に思った店員につかまり、しこたま叱られた。その時私は自分の名前を正直に言わずに、隣の家の、あのテレビを見せてもらった「テヅカ」を名乗ったのである。浅知恵である。嘘をついたのである。こちらの方が万引きそのものより悪質であった。そのときのことは、その後の一生のトラウマになっている。正直に生きようと反省したからである。

 「ヨシミ」との想い出では、小岩井牧場へ遊びに行った事があった。行きは当然駅から蒸気機関車に乗って行ったのであるが、帰りが悪かった。3時発の盛岡駅行きに間に合わず、次の列車が6時だったので、線路の上を歩く事にした。子供の足でも3時間である。家へ帰り着いて叱られたのは勿論、無茶な事をしたと、しばらく言われていた。

 身障会館には、植字工の「オオモリ」さんと、靴屋の「カシワ」さんがいた。どちらも戦争で足をやられていた。二人とも私の事をかわいがってくれた。「カシワ」さんが、木屑でゼロ戦を作ってくれた。

 小遣いは、週40円であった。これは一週間7日、一日5円として、週末だけ10円を使って良いと言うものだった。10円で八百屋へ行き、サクランボをかっていた。当時は新聞紙で作った紙の袋に一杯入っていたものである。

 当時後ろの方で小さくなって聴いていた「ポパイ」のテーマである。

      

 

2008年10月24日 (金)

幼稚園に通っていた頃の事

 私が通った幼稚園は、「盛岡生活学校付属幼稚園」後に改称して「向中野(むかいなかの)幼稚園」と言う所で、バスで20~30分はかかったのではなかったかと思う。

 加賀野(あるいは加賀野久保田)からバス停(公会堂)までは歩いて結構かかった距離にあった。よく覚えてはいないが、何でもお菓子屋さんのお嬢さん、「みっちゃん」を誘って、一緒に行ったらしい。他にも二人女の子が一緒だった。一人はお米屋さんの「その子」ちゃんで、もう一人はパーマ屋の子だったが名前は忘れた。

 わずか4歳か5歳の子供が一人で通っていたとは驚きである。母親に連れられて行った記憶は無い。

 何故そんな遠くの幼稚園を選んだかは、一高(県立盛岡第一高等学校)に入学して分かった。なんと幼稚園の同窓生が皆一高に集まったからである。父母が教育熱心だったのだろう。

 バスと言えば、どこ行きのバスに乗るのかが問題である。私が生涯で始めて覚えた文字は「上」という漢字である。路線にはこの文字が頭についたバスは一台だけだったので、覚えてこれに乗った訳である。

 幼稚園での一番の想い出は、「田植え」である。幼稚園の周りは田圃であったので、農家の方が田植えを終えた田に入って、せっかく植えた稲を引き抜き、集めては自分たちで田植えをしたのである。自分たちと書いたのは、そのころ私は幼稚園ではボス的存在だったようで、園児をたばねてこの悪戯をしたのである。当然衣服がドロだらけになる訳で、幼稚園には「お着替え」が用意されてあって、それを着て、ドロだらけのお土産を持って家に帰ったのである。それで、家族に知れた訳である。

 幼稚園には池があって、夏には「しおからトンボ」が飛んでいたのを想い出す。すばしっこい奴で、幼稚園児に捕まえられる訳が無い。それでも捕まえようと頑張ったようである。おにやんまも覚えている。たまに目にした。

 お昼ねの時間に「トロイメライ」のレコードが流された。私は眠らなかった方だと思う。

 流行っていた遊びはベッタである。ベッタとは方言で、標準語ではめんこである。あるとき負けがこんで、すっかり取られてしまった事があった。あの悔しさは忘れない。

 先生も若い女の先生が何人かいたが、覚えているのは「ミナミダヨウコ」先生お一人である。後に園長先生になられたのを知った。もしかしたら、今もご在職かも知れない。ネットで調べたら現在は「スコーレ幼稚園」と改称し、専門学校、高等学校の付属の幼稚園になっていた。そのホームページでは、園長先生は35年在職とあったので、私が通っていた頃に戻って考えると、ご在職の可能性は高い。

 自宅で蛍を蚊帳の中に入れる程だったので、北国の盛岡でも蛍が居たのは確かである。狭いが庭があって、蛍狩りをしたのだろう。

 銭湯へ行くと、父は頭を洗ってくれた。タオルをぎゅっと絞って目に当てるのである。私も父の背中をながしたりしたと思う。冬は帰りにタオルが凍ったのを覚えている。それほど寒い地方だった。

 幼稚園から帰ってくると、紙芝居が唯一の娯楽だった。5円玉を握りしめて、べっこう飴を買うのである。そして、5円と言う小遣いをもらえたのは毎回ではない。飴が買えないと後ろの方から訳も分からずながめていた。ストーリーが見えてこないのである。それでもかじりついていたものである。自宅からすぐ近所にあった神社が舞台であった。家を出て右へ100m程行った左側のところだった。

 当時グリコが楽しみで、一箱10円だったと思う。これも毎日ではない。母親の機嫌のいい時を見計らってねだっていたのである。記憶は定かではないが、文化橋のこちら側にあったお菓子屋だったかと思う。文化橋は家を出て右へ300m程の所だった。おまけが目的である。なかなか買って貰えなかったように思う。

 母は幼稚園の頃は、よくおやつに「ワッフル」を焼いてくれた。クリームも自家製で、美味しかった。それと「どんと焼き」という下町の食べ物を焼いてくれた。これはお好み焼きほど立派なものではなく、もんじゃ焼きを少し硬くして焼いたようなものである。

 あれは確かに私が幼稚園に通っている頃の出来事だが、同じ町内のお米屋さんの息子が相撲取りになった事があった。大人たちは騒いでいた。私には何の事かよく分からなかった。

 そして私たち一家は、盛岡市内平山小路の身体障害者会館(身障会館)へ引っ越した。これが幼稚園に通っている間だと分かるのは、幼稚園へ行くバス停が変ったからである。七十七銀行というバス停である。そこからは当然一人で通った。母親は身障会館の仕事で多忙だった。近所の友人が出来たのは小学校へ入学してからである。

 夜の楽しみは、NHKの「一丁目一番地」だった。

      

 

2008年10月21日 (火)

誕生から幼稚園入園前まで

 1954(昭和29)年11月15日(月曜日)、父・澄意(すみい)は1927(昭和2)年4月14日生まれで27歳。母・美代子は1928(昭和3)年10月23日生まれで26歳。この間に、岩手県盛岡市大通りの高橋産婦人科で、長男として生を受ける。名前を決めるに当たっては、川村先生と言う父の同僚、盲目の箏曲家・作曲家、宮城道雄の愛(まな)弟子に当たる方に相談し、芳弘と命名された。

 父は、福島県会津若松市の農家の出身。岩手県立盛岡盲学校の高等部の理療科教師。盲人の為、農業を継げないかわりに、学校だけはださせてくれと、東京教育大学卒業で、最初で最後の赴任先が盛岡である。母は当時植民地であった台湾で生まれた。母方の祖父は警察関係だったという事である。育ちが東京の下町で、やけにこだわっていた。学歴は無く、自学自習した人であった。1945年3月10日の東京大空襲で福島へ疎開し、会津若松で図書館の手伝いをしていたようだ。材木商の方の紹介で見合いをし、結婚に至った。

 新婚の住まいは盛岡市上田の某写真館の二階にあった。父の学校へ近い所だったからである。なんでも、はいはいをしている時分、階段を転げ落ち、下で炊いていた七輪にかけてあったもので、おしめをしていた大事な所を火傷したそうである。大きくなるまで、母は、自分の責任だと思っていたようだ。ラジオが唯一の楽しみであったらしく、ラジオの前で父母に抱かれた写真があった。当時は写真館で記念写真を撮ってもらうのがたまにあった。

 実は後になって、自分の写っている写真は総て破棄した。反抗期のことである。

 妹が生まれたのは、私が3歳と9ヶ月の時である。市立病院で生まれたのであるが、覚えは無い。名前は悦子である。妹が出来る前、一家は盛岡市内加賀野(かがの・または加賀野久保田)の一軒家を半分づつ使うと言うおかしな借家に引越した。隣は新聞記者だったらしい。一つ上の男の子が居たが、遊んだ記憶はない。

 妹が生まれる前後、母方の祖母が家へやってきた。この人は若い頃にはかの幸田露伴の下で働いていたと言う事である。東京の出身で、気風が母にそっくりであった。その祖母が見ている前で、針仕事をしていた母の裁縫箱を踏み抜いたことがあった。祖母が母を叱っているのを何故か記憶している。

 父が学校までバスで通うことになったのだけは鮮明に覚えている。なぜなら、物心ついたときから、父の送迎に手を引いていたからである。銭湯もバス停の近所だった。間違っているかもしれないが文化橋という橋の向こう側にあった。

 新春、あるいは豆まきの頃か、秋田のなまはげにならって、我が家にも鬼がやって来た。幼い私は泣き出したのを覚えている。

 夏は、中津川へ涼みに行った。その中津川の上流に牛乳工場があって、白い物がながれていた。また、蚊帳を張って寝ていたものである。

 秋、といっても東北の秋は早い。隣の大家さんの庭に、丹精して育てた菊の花が咲いた。それを花ばかりもぎ取ってしまった事があったようだ。これも母親が平身低頭、謝りに行ったそうだ。大家さんはおおらかに許容してくれたのだったが。

 東北の冬はきつい。私は父親と一緒に寝ていた。私が暖かったからだろうか。小学生の初めまで冬はそうしていた。

 父からは、私は数々の名前で呼ばれた。「ぼう」「じゅ」「じゅぼろ」…今はこれ位しか出てこないが、当時数えた時には、20種類程あったらしい。そんな父だが、私が生まれた時には、自分の子ではないと母に語ったと言う事である。詳細は不明だ。

 向かいの女の子ばかりの姉妹のところでよく遊んだらしい。後から付け加わった記憶だろうが、グリコのおまけを貰ったように記憶している。その家ではグリコを開けるとき、袋を破らずに箱を取り出してはまた元のように袋に入れていたので、私が貰ってきた時には、新品同様だったので、母がお礼に行った。大変恐縮してである。

 以下の曲は、当時ラジオで聞いていた。NHKの『ヤン坊ニン坊トン坊』である。アップロードする曲は実は父の遺品のなかの一枚のCDからである。著作権に抵触するのだろうが、プロバイダーから意見でも頂戴しない限り、載せ続けていく。

      

 

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