小学校高学年の事(2)
小学校5年生の時、私はNHKのテレビ番組に出演した。「知事さんこんにちは」と言う番組で、5年生では私ぐらいだった。皆が「遊び場が無い」等といっている中で、「岩手は資源が豊富だがその開発をどうするのか」と尋ねた。原子燃料公社の人々を知っていたからである。後で、級友の母親から、「あれは誰に言わせられたのか」と聞かれたが、正直、自分自身の疑問であった。NHKからは、出演のお礼として色々なお土産をもらった。
また、同じ頃、200円を預けられて、好きなおかずを買って来いと母親に言いつかった事があった。「マルハチ」と言うスーパーで買い物をしていたのだが、時間がかかりすぎ、母親が迎えにきた。200円きっちりと使おうとして、暗算しながら、後何円とやっていたのである。
「イシバシ」君という友人が居た。彼との秘密は岩手医大の霊安室の裏の隠し場所である。そこに町で拾った「平凡パンチ」や「美術用のデッサン用の写真集」等を隠していた。性の目覚めであろうか。比較的よく集まった。
小学生の高学年の頃には、学校の図書館をよく利用した。また一月にいちど、本屋さんがやってきて、体育館で「学習」と「科学」の二種類の本を売っていた。私は「科学」の方を買っていた。クラスでも皆が買っていた訳ではない。まだ、欠食児童という言葉が残っていて、「ヨシダ」君や「タカハシ」君などは食事が学校の給食だけだったと言う事実もあった。
当時は他に「ムラマツ」君と言う、母親が水商売の同級生がいた。彼の家へ行くと、母親も父親も下着姿で、こっちがびっくりした。彼は中学を卒業すると横浜に出て、中華料理の見習をして、十代で結婚し、一家をなしていた。子供も早く生まれたようであった。彼には弟があったが、優秀だったとのことである。
「ムラマツ」君の家では、春先、桜のシーズンになると、高松の池と言う所で屋台を出していた。遊びに入ってはおでんなどご馳走になった。
私は人の面倒見が良かったので、構内児童会の会長になった。その挨拶の朝礼の朝、母親に叱られて、家を出た為、ハンベソをかきながら壇上に上ったのを覚えている。児童会は週一回集まっては色々話合っていたのだが、細かい事は忘れた。
あるとき、子供会総会の会長選挙があったが、これはPTAの会長の娘に取られてしまった。顧問の先生がそのように紹介したからである。悔しかった。副会長になったのである。私は誇らしげに、二つのバッジを当時気に入っていた紺色のセーターに付けていた。
1965年には、ミュージカル映画の「サウンドオブミュージック」を見た。小学校では年に1度か2度、映画館に連れて行ってくれ、文部省推薦の映画を見せてくれていたのである。オープニングを載せておく。
父は、サウンドオブミュージックのLPを買ってくれた。そのころステレオはパイオニアの三つに分かれるセパレート・タイプのものだった。それこそ溝が磨り減るほど聞いたものである。その中で、「ドレミの歌」は、カタカナにして、英語で歌おうとした。これも中学に入ってから辞書を片手に翻訳した想い出がある。父はレコードに関してもかなり散財したが、私が頼んだレコードはほとんど買ってくれた。
小学校5年生の時、私はギターを買って貰った。当時流行っていたエレキギターではなく、クラシックギターである。教習本と一緒で3000円位だった。当時ギターを持った小学生などいなかったのではないか。6年生になってから、クラスの「イワオカ」君達とバンドのような真似事をした。彼はギターマイクを付け、ピックでクラシックギターを弾いていたが、エレキギターのような音が出た。
また、白黒のカメラも買って貰った。岩手銀行の写真展で、盛岡城跡の石垣を撮って、入賞し、花瓶を貰った。賞状は例によってメモ用紙である。
また、レーシングカーが流行っていて、八の字のコースのキットを買って貰った。しかし子供の手には余るもので、完成させずに捨ててしまった。
小学校最後の想い出は、仙台への修学旅行である。「白松がモナカ」というお菓子工場へ見学に行ったが、お土産を交わせる為である。私は少ない小遣いで、父の好物の「九重」を買った。それが、もうすぐ盛岡駅に着く直前で窓から落としてしまった。暗い中自転車で落とした辺りを捜したらそのままあった。拾ってきたのはもちろんである。父への数少ない親孝行のつもりだったのである。


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