小学校高学年の事(1)
小学校高学年になると、一家は長町(長田町)に引っ越した。狭い路地裏の二件長屋で、大家さんは本屋さんだった。それで、本を買うのは自由だった。私は「子供の科学」をとっていた。他に本をよく買ってくれたが、読むには読んだが、余り内容は覚えていない。「ほら男爵の冒険」はよく覚えている。表紙の名画が素晴らしかった。
隣は「ヨシオカ」さんと言う大工さんだった。おとなしい方で、しかられた事など一度もなかった。お嬢さんがお年頃だった。よく自動車で送ってもらっていたのを見た事がある。
魚屋は長屋の路地を出てほぼ正面。隣が豆腐屋、駄菓子屋と銭湯と床屋は路地を出て右へ行ったところ。路地を出て左へ行くと映画館と八百屋があった。
その八百屋で生まれたメス犬を貰ってきて飼った。名前は平凡にも「ポチ」とした。私が東京へ出るまで、長生きだった。
路地を出て左へ行った映画館は、最初は普通の映画館で、モスラとかゴジラとかを見たものである。アズサミチヨの「こんにちは赤ちゃん」も見た覚えがある。しかし、興行が上手くいかなかったのだろう。すぐに成人映画専門館になった。恥ずかしかった。なまえは「ギンエイザ」と言った。
父の勤務の仕方も変り、ある楽器店の前のバス停に変った。一度2時間以上待った事があった。父は「飲み会」だった時である。凍える寒さの中、1時間に1本のバスを父の為に待ったのである。
習い事はそのままやや遠くなった所から通った。日曜日も、なんでも母の教会に対する考え方の違いから、近くの「聖公会」という所に変った。
小学校は、学区外となり、本来なら別の小学校に転校しなければならなかったのだが、何故かそのまま桜城小学校に通っていた。
妹がネフローゼになったのも、引っ越してからである。減塩バターや薄味の食卓には閉口した。幸いその後直ったようである。
学校では、ハーモニカと鉄棒に凝った。負けず嫌いな所があって、ハーモニカと鉄棒はクラスでもかなり上の方だったと思う。鉄棒ではかなり手のまめを潰した。それでも逆車輪に挑戦していた。結局は出来ずに終わったが、休み時間といえば鉄棒ばかりしていた。一度まっさか逆さまに落ちて気を失った事もあった。
指導者もいないまま我流で、やっていた。
小学生の頃は、毎週のように何かしらの「賞状」を貰っていた。副賞の花瓶など、母は喜んだが、賞状のほうは破いてメモ帳代わりにされていた。それ程学校も賞状好きだった。
弟が生まれたのは1964年8月30日である。オリンピックの年である。近所の産婦人科で生まれた。このときも母方の祖母がやってきたように記憶している。
5年生から6年生にかけては、器楽部に所属していた。アルトハーモニカというのであろうか、大きなハーモニカを吹いていた。指導に当たられたのは「ヘライ」先生と言う男性の先生で、その奇妙な名前はわすれられない。後で知ったのであるが、「ヘブライ」と関係があったらしい。青森にはキリストの墓もあり、その昔、ヘブライ人がこの東北へやって来たというのである。私は佐渡島で、キリストの墓を見たように記憶している。高校生の時のことである。
ご多分に漏れず、私もオリンピック少年だった。1964年と言えば計算上は小学4年に当たる。私はこのオリンピックの為の、実験放送を、徹夜してみたものである。飛び込んできたニュースはアメリカからはケネディ大統領暗殺の話であった。白黒テレビにかじりついていた私は、よく分からなかったにもかかわらず、後で勉強した。イギリスからはビートルズの「Love」を連呼する歌だった。3台の衛星で、世界同時放映が可能になった記念すべき出来事だった。ここにケネディの月へ人類を送り込む演説が残っているので載せておく。
中学校に入ってから辞書を片手に読んだ物である。辞書は早くから「コンサイス英和辞典」を使っていたが、高校に入るまでやや難しいものだった。
その年の10月10日に開会式が開かれた。テレビに釘付けであった。学校でも、オリンピック最優先で、当時としては珍しい各教室に一台ずつテレビが備えられていた。授業そっちのけでオリンピックの中継を見たものである。
色々と感動を覚えたが、中でも遠藤選手の鉄棒演技や「東洋の魔女」、マラソンの円谷選手の銅メダルといった活躍が記憶に鮮明である。後で悲劇に終わったが、アベベの金は当然としてもかなりの重圧があったのだろう。


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