小学校入学から低学年の事
小学校へ入学したのは、1960(昭和35)年4月である。盛岡市平山小路に住んでいたので、その学区の小学校へ通った。
最初の担任の先生は「キクチヨウ」先生だった。1年1組である。全部で4組だった。6年間1組である。出席番号は15番だった。何故なら私が11月15日生まれだから覚えているのである。その頃の他の記憶はほとんど無いが、机が木製で、二人掛けの椅子で、机は前の椅子にくっついていた。何故覚えているかと言えば、上級生になって、以前の教室を覗いたからである。机には引出しは無く、上下させて中に教科書等を入れる形だった。
小学校に入って、まず暗記させられたのが「火事の合図は三点しょう(鐘?)。慌てず、騒がず、順序良く。一度出たなら戻らない」と言う標語である。
給食がすぐに始まった。米軍放出の小麦粉で焼いたコッペパンと脱脂粉乳は覚えている。皆はまずいと言ったが、私には脱脂粉乳も美味しく感じられた。高学年になって、ランチタイムという各学年の生徒が一堂に会して、給食を食べた事があった。
学校で掃除当番が始まった。雑巾をもっていくのである。何か一段上へ進んだ思いがした。その頃は2年生だったのだろう。担任は盛岡一美人と言われた「クドウタミコ」先生である。3年の頃だろうか、この担任が出産の為休職された。代りに来た先生は、やや年配の「タガイ」先生だった。半年程お世話になったのであるが、「クドウ」先生には、第2学年から第6学年まで5年間担任をして頂いた。
小学生の時、低学年から柔道と書道を習わされた。柔道は一番小さく、投げられ役専門であった。おかげで、受身が上達し、後で役にたった。月曜。水曜、金曜の週3回だった。道場の名前は「船越道場」。水曜日が総当りの試合があった。見たいテレビを我慢して、7時から8時半くらいまでだった。8時半からは大人たちの時間であった。
書道は、「リフ」先生と言う年配の先生の所だった。土曜日の午後に通った。低学年で始め、高学年まで通っていたので、実力はないものの、その属していた団体から5段をもらうまでになった。手本を下にひいて、なぞるのであるから、形だけは良かった。そういう先生だった。
子供用の自転車を買って貰い、学校の鉄棒を伝って練習し、一人で乗れるようになった時には嬉しかった。日曜日には30分以上かけて遠くの館坂(たてさか)と言う所にあった教会の、日曜学校へ通わされた。母親がキリスト教に熱心だったからである。つまり、月曜から日曜まで、休みは無かったのである。
日曜日、教会から帰ると、父の手を引いて、レコード屋へいった。父の楽しみはレコードだったからである。
当時の物価は、かけ蕎麦が50円、支那蕎麦が80円位だった。そんな中で父は当時出始めた50円玉(とても大きく感じた)をためていて、マルハチ(スーパー)で両替をして、レコードにとどまらず、ステレオまで買った。私には触らせなかった。何故ならレコードが極めて高価だったからである。しかし、父の居ない時、ビゼーのカルメンやベートーヴェンの運命等聴いていた。
そんな父と、会津若松の本家まで旅行したのも低学年の頃である。夜汽車に揺られて行ったのだが、私は生まれて初めて缶詰の「トマトジュース」を飲み、気分が悪くなったことを記憶している。本家では、小遣い欲しさに、ご飯をお代わりさせられた。
平山小路の身障会館の隣には、今はもうなくなったかと思うが、「原子燃料公社」と言うのがあった。そこの研究員の方にもかわいがってもらった。ウラン鉱(ガイガーカウンターで50カウント)や、放射能を帯びた黄銅鉱(ガイガーカウンターの150カウント)を始め、ガーネットや方解石、水晶の結晶等を貰った。夏休みの自由研究で、それらをお菓子箱に入れて、自分で付けた名前の札を添えて提出したら、学校に取り上げられてしまった。参考までに学校に陳列すると言う事だったが、目にした事はない。
その頃、近くで道路工事があり、舗装の為の砂利を敷いていた。その砂利が宝物だった。現場へ入ってはこれぞと言う石を収集していた。母親には叱られたが、子供の宝物とはそういう物である。高校に通いだしてから、石の名称などを調べた。大したものは無かったが、中にはいいものもあった。
小学校の低学年の時には、家にテレビが無く、となりの「テヅカ」君の家へ妹と見せて貰いにいった。おぼろげな記憶だが、日曜日の夜の「ポパイ」を見た覚えがある。先日、ダイソーでこの「ポパイ」のDVDを買って見たが、たいした内容ではなかった。
冬はスケートは「下駄スケート」と言う物を買ってもらった。雪の上でもスケート出来るのである。大雪の日にはスキーを履いて学校に行った覚えがある。めったには無かったが、長靴では間に合わない程積雪のあった時である。
よその組だったが「双子」がいた。見るからにそっくりでびっくりしたものである。
またアメリカ人の宣教師の息子と娘が通っていた。男の子は「ダニエル」くんで、呼ばれて家まで遊びに行った事があった。父親の宣教師が簡単な手品をしてくれたのを覚えている。
私の人生で、最も最初に出会った英単語は「ワケーノウ」である。ダニエル君が、噴煙を出している「岩手山」を指差してそういったのである。これが「ボルケーノウ(volcano)」だったと分かったのは19歳位の東京の英会話学校に入ってからである。
近所には、「ヨシミ」と言う一学年上のワルが仕切っていた。また、「タコちゃん」というのもいた。同級生ではないが、一学年上の女の子に「クボタカツコ」というのもいた。後で、中学校でいっしょになる。彼女は岩手大学付属小学校に通っていたのだと思う。正直言って大した遊びはしなかったが、当時流行っていた「七人の刑事」ごっこのような事をしていた。よく木に登った。
そんな日常の中にある、想い出したくない事件があった。それは「ヨシミ」ら一味との、集団万引きである。「カワトク」の食料品部門が小学校のとなりにあり、傘を持っていき、その傘にチョコレートやガムを入れて、出てくるのである。不信に思った店員につかまり、しこたま叱られた。その時私は自分の名前を正直に言わずに、隣の家の、あのテレビを見せてもらった「テヅカ」を名乗ったのである。浅知恵である。嘘をついたのである。こちらの方が万引きそのものより悪質であった。そのときのことは、その後の一生のトラウマになっている。正直に生きようと反省したからである。
「ヨシミ」との想い出では、小岩井牧場へ遊びに行った事があった。行きは当然駅から蒸気機関車に乗って行ったのであるが、帰りが悪かった。3時発の盛岡駅行きに間に合わず、次の列車が6時だったので、線路の上を歩く事にした。子供の足でも3時間である。家へ帰り着いて叱られたのは勿論、無茶な事をしたと、しばらく言われていた。
身障会館には、植字工の「オオモリ」さんと、靴屋の「カシワ」さんがいた。どちらも戦争で足をやられていた。二人とも私の事をかわいがってくれた。「カシワ」さんが、木屑でゼロ戦を作ってくれた。
小遣いは、週40円であった。これは一週間7日、一日5円として、週末だけ10円を使って良いと言うものだった。10円で八百屋へ行き、サクランボをかっていた。当時は新聞紙で作った紙の袋に一杯入っていたものである。
当時後ろの方で小さくなって聴いていた「ポパイ」のテーマである。


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