幼稚園に通っていた頃の事
私が通った幼稚園は、「盛岡生活学校付属幼稚園」後に改称して「向中野(むかいなかの)幼稚園」と言う所で、バスで20~30分はかかったのではなかったかと思う。
加賀野(あるいは加賀野久保田)からバス停(公会堂)までは歩いて結構かかった距離にあった。よく覚えてはいないが、何でもお菓子屋さんのお嬢さん、「みっちゃん」を誘って、一緒に行ったらしい。他にも二人女の子が一緒だった。一人はお米屋さんの「その子」ちゃんで、もう一人はパーマ屋の子だったが名前は忘れた。
わずか4歳か5歳の子供が一人で通っていたとは驚きである。母親に連れられて行った記憶は無い。
何故そんな遠くの幼稚園を選んだかは、一高(県立盛岡第一高等学校)に入学して分かった。なんと幼稚園の同窓生が皆一高に集まったからである。父母が教育熱心だったのだろう。
バスと言えば、どこ行きのバスに乗るのかが問題である。私が生涯で始めて覚えた文字は「上」という漢字である。路線にはこの文字が頭についたバスは一台だけだったので、覚えてこれに乗った訳である。
幼稚園での一番の想い出は、「田植え」である。幼稚園の周りは田圃であったので、農家の方が田植えを終えた田に入って、せっかく植えた稲を引き抜き、集めては自分たちで田植えをしたのである。自分たちと書いたのは、そのころ私は幼稚園ではボス的存在だったようで、園児をたばねてこの悪戯をしたのである。当然衣服がドロだらけになる訳で、幼稚園には「お着替え」が用意されてあって、それを着て、ドロだらけのお土産を持って家に帰ったのである。それで、家族に知れた訳である。
幼稚園には池があって、夏には「しおからトンボ」が飛んでいたのを想い出す。すばしっこい奴で、幼稚園児に捕まえられる訳が無い。それでも捕まえようと頑張ったようである。おにやんまも覚えている。たまに目にした。
お昼ねの時間に「トロイメライ」のレコードが流された。私は眠らなかった方だと思う。
流行っていた遊びはベッタである。ベッタとは方言で、標準語ではめんこである。あるとき負けがこんで、すっかり取られてしまった事があった。あの悔しさは忘れない。
先生も若い女の先生が何人かいたが、覚えているのは「ミナミダヨウコ」先生お一人である。後に園長先生になられたのを知った。もしかしたら、今もご在職かも知れない。ネットで調べたら現在は「スコーレ幼稚園」と改称し、専門学校、高等学校の付属の幼稚園になっていた。そのホームページでは、園長先生は35年在職とあったので、私が通っていた頃に戻って考えると、ご在職の可能性は高い。
自宅で蛍を蚊帳の中に入れる程だったので、北国の盛岡でも蛍が居たのは確かである。狭いが庭があって、蛍狩りをしたのだろう。
銭湯へ行くと、父は頭を洗ってくれた。タオルをぎゅっと絞って目に当てるのである。私も父の背中をながしたりしたと思う。冬は帰りにタオルが凍ったのを覚えている。それほど寒い地方だった。
幼稚園から帰ってくると、紙芝居が唯一の娯楽だった。5円玉を握りしめて、べっこう飴を買うのである。そして、5円と言う小遣いをもらえたのは毎回ではない。飴が買えないと後ろの方から訳も分からずながめていた。ストーリーが見えてこないのである。それでもかじりついていたものである。自宅からすぐ近所にあった神社が舞台であった。家を出て右へ100m程行った左側のところだった。
当時グリコが楽しみで、一箱10円だったと思う。これも毎日ではない。母親の機嫌のいい時を見計らってねだっていたのである。記憶は定かではないが、文化橋のこちら側にあったお菓子屋だったかと思う。文化橋は家を出て右へ300m程の所だった。おまけが目的である。なかなか買って貰えなかったように思う。
母は幼稚園の頃は、よくおやつに「ワッフル」を焼いてくれた。クリームも自家製で、美味しかった。それと「どんと焼き」という下町の食べ物を焼いてくれた。これはお好み焼きほど立派なものではなく、もんじゃ焼きを少し硬くして焼いたようなものである。
あれは確かに私が幼稚園に通っている頃の出来事だが、同じ町内のお米屋さんの息子が相撲取りになった事があった。大人たちは騒いでいた。私には何の事かよく分からなかった。
そして私たち一家は、盛岡市内平山小路の身体障害者会館(身障会館)へ引っ越した。これが幼稚園に通っている間だと分かるのは、幼稚園へ行くバス停が変ったからである。七十七銀行というバス停である。そこからは当然一人で通った。母親は身障会館の仕事で多忙だった。近所の友人が出来たのは小学校へ入学してからである。
夜の楽しみは、NHKの「一丁目一番地」だった。


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